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大空襲の犠牲者 氷見海岸にも流れ着く

カテゴリー: 県内団体の催し

 1945年8月2日未明、アメリカ軍のB29爆撃機174機が富山市上空に飛来し、1,320トンの焼夷弾と小型爆弾を投下しました。
 この空襲で、当時の市街地の99.5%が焼失。約3,000人が死亡し8,000人が負傷するという地方都市では最大規模の被害を出しました。

 8月1日が米陸軍航空部隊の創設記念日で、カーチス・ルメイ司令官の昇格祝いとしての最大の無差別爆撃の標的となったことや、事前に投下された予告ビラが周知されることなく行政に回収され、空襲中、逃げようとする住民を憲兵と警防団員らが押しとどめたことが最大の被害につながりました。

 空襲を受けて、市民は神通川に逃げ込みましたが、そこで多数の人が亡くなりました。
 犠牲者の遺体は、神通川の河口から直線距離で30km以上離れた氷見市の島尾海岸にまで流れ着きました。なかには、赤ちゃんを胸に抱いた若い母親や、手をしばり合わせた寝間着姿の12、13歳の姉と6、7歳の弟の遺体もあったといいます。

 住民は流れ着いた遺体を近くの松の根元に葬り、毎年8月1日に野花を供えて供養してきました。1975年8月12日には、募金で慰霊のための地蔵尊を建立。その後は、島尾自治会の主催で毎年8月12日9時から、高岡市の国泰寺の管長を招いて法要を行っています。最近は地域の子どもたちも参加。法要後、公民館で世話役の人が、大空襲の体験記を読み聞かせています。

 日本への原爆投下を計画していたアメリカは、投下候補地の新潟、広島、京都、小倉以外の全国49力所に長崎型原爆と重さと形が同じ模擬爆弾も投下しました。

 県歴史教育者協議会の松浦晴芳さんは、「最近の政治では、戦争を美化したり隠したりする動きがあるなか、戦争の真実に向き合わなければ同じ過ちを繰り返す恐れがある。偏ることなく戦争を見つめることが大事」だと話します。

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