11月23日に行われた「私と日本共産党―富山県党の歩み」で発言された4人の発言を数回に分けて順次紹介します。最初は野上登美子さんです。
東部支部の野上です。
富山県党の歩みといいましても、私、全県的な立場にあったわけではありませんが、あと2か月で93歳になりまして、昭和22年(1947年)、終戦の翌々年ですね、数え年18歳で入党しまして、今年で党歴75年になります。そういうわけで、いくらか県党の古い時代、過去の時代のお話をできるかと思います。
私の体験が中心の話になりますが、1つお願いがあります。共産党員はみんな、困難がつきものの活動をしてきました。古い時代もいろんな困難がありましたし、特に50年問題の頃は大変でした。お願いというのは、いろんな困難を乗り越えてきた話が、苦労話じゃなくて、その話の中から、現在の党の発展を実感していただきたい。そういう思いでお話します。
日本共産党富山地方委員会準備委員会ちゅうのが終戦のその年の終わりぐらいに持たれて、その時は党員が8人だったと書いてあります。その翌年の21年の11月に新憲法が出たわけですけれど、21年の1月には、第一回の県党会議を開いておられます。
そのころ、共産党員を増やそう言うて、最初に常任委員会に集まられた方たちが一生懸命になられたんだろうと思います。私の夫が入党したのが、21年ですけど、電柱に共産党の学習会をやるとポスター貼ってあったがですと。それを見て行ったのが、私の夫が21年に入党したきっかけになったと、聞いております。そういうことから、党の準備会を立ち上げられた方たちの一生懸命さが、なんか察しられるような気がします。
衆議院選挙第一回があったのが、22年の4月ですけれど、そのころは新憲法でね、みんな、終戦後の食べ物がなくて、困っとんがだけど、気持ちは戦中の抑えられた気分から解放された気分がみんなあったんですね。それで、私の母と兄嫁がね、総選挙に行くがに、よそ行きの、ここ1番の着物を着て出かけたのを覚えています。
そういう時に、私は良妻賢母を育てる女学校の4年生でした。それで、カチカチの良妻賢母教育にかぶれとったような人間でした。3年から4年、終戦前1年間は不二越の学徒動員で働いていました。私も終戦後、食べるものがない、貧乏だけれど、気分はなんかこう、カラッと広がったような、そういう雰囲気になりました。
終戦後、21年ごろは、いろんな学者の人が戦後、しゃべれるようになったので、講演が時々あって、講演をわからずながら聞きに行ったりしとりました。私がまず関心を持ったのは、浮浪児、戦災孤児のことでした。戦災孤児は親を亡くして、上野駅とか地下道にたむろしている。それを警察が刈り込んでいく、そういうのを新聞でいっぱい見ました。私、そのことにとても、気がひかれたんです。というのは、5歳で母親を亡くして、終戦の半年前に父親を亡くしていまして、両親がいない子どもたちのこと、たった1晩の空襲で両親を亡くした子どものことがどうしても頭から離れなかったんです。
そういうときに、西町で救世軍やらゆうのが、丸太を積んで、そこへ鍋を下げて、そこへお金をチャリンチャリンとみんなカンパする、そういうのがあったんですね。それを見たときに思ったんです。こういう寄付を集めたぐらいで、ああいう浮浪児が助かるんだろうかと。すごく疑問というか、納得できない、心に残っていたんです。そういう時に、私の兄が療養所にいったん入ったんですけど、置いていった、トランクの中に、「共産党宣言」ちゅうね、ざら紙の薄っぺらいパンフレットがトランクの中にあって、それを読んで私はものすごく感激したんです。ああ、これだと。これが本当に搾取がない、貧乏と富という、これがなくなって、真の民主主義ちゃこういうことでなかろうかと、そういうふうに思いまして、一辺に共産党が頭の中に入ってきたのですね。
(次号に続く)