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「私と日本共産党」での発言 富山地区・東部支部・野上登美子(3)

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 そうこうしているうちに、昭和25年のレッドパージが始まります。それまで「不二越」には、2けたの党員、細胞の機関紙100号ぐらいにまでなってたんだそうですけども、みんな追い出されました。レッドパージの後、共産党に籍を残したのは2名しかいなかったんです。党はそのころ、呉東地域を富山群委員会と岩瀬郡委員会という組織で担当していて、富山群委員会は、一応私が責任者ということになりまして。富山群委員会での中心的な活動は、今の不二越にあった党組織を再建することでした。支部を再建することでしたので、工作隊というのが作られました。文化工作隊は、歌を教えられる人を中心に、社宅で歌を歌って、子どもたちを集める活動中心。それから、私たちは、工作隊として、社宅を中心に活動することが任務になりました。そのころの私らのしたことは、ビラ。ビラをね、2千~3千、ガリ版で刷って、門前でビラまきをしました。それから不二越工作隊で、機関紙を作って、社宅を回って配ってました。

 社宅を夜回ったんですけど、初めのうちは、読んでくださるんです。そのうち会社が徹底的に私たちを締め出す方向にいって、社宅に行きますと、尋ねた家の人が次の日に職制に呼ばれて、注意されるという、言ってみれば私たちの動きを逐一見回って、私たちの動きがすぐ会社に通じるようになって、だんだん大変になりました。

 ある時、そういう中でも少しずつ話してくれる方が出てきて、あるお母さんが、「お父ちゃんたち会社に行くがに、米なくて弁当持たせられんがだ」言うてね、「それが弱るがだちゃ」という話が出たんです。会社が給料遅配するので、米が買えなくて弁当を持たせられないと。ならばせめてね、「お金もらえんがなら、会社で米用意してもらえんか」ってことを呼びかけたら、アパートのお母さんたちが続々何十人か集まって、行列作って、会社に押しかけました。私を先頭に。その時、私は、お母さんたちの力を本当に身をもって感じたんです。

 会社はとにかく、お母さんたちを部屋には入れてくれたんです。そして、社長が出てきて、お母さんたち黙っているから、仕方がないから私、口火を切ったんですね。そしたら社長が、「どこの馬の骨か知らんけど」って言って、私をにらみつけたりしました。

 でも、私がしゃべることに元気づいて、お母さんたちがせっせとしゃべりだしました。結果として、金はもらえないけど、会社がお金を払って、お母さんたちが、米を米屋からもらえることになって、意気揚々と凱旋してきました。

 そういう経験もありまして、会社は私たちをつぶそうとするけれど、少しずつ共産党を思ってくれる人が増えていったと思います。それでも、監視がいっぱいついていたようです。私らは、夜、情報を聞いてビラにしてたんですが、要求や会社の様子を聞くのに、少しでも社宅を回って聞こうとする。そうすると、その行った家の人が次の日、職制に叱られる。そんな中で、だんだん敬遠されて、なかなか話が聞けない状態になっていきました。

 それでも、ビラまきは一生懸命しました。ビラまきの選手みたいなものでね、上手になりました。
      (終わり)

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