私が日本共産党に接近し、入党する経緯について言いますと、昭和29年に高校の定時制を卒業して執行委員になるという状況で、労働組合の出入りを頻繁にやっていたんですね。労働組合の出入りをしている時に、青年部の仲間で学習会をやっているということがありまして、私もそれに顔を出すようになる。
その時に、朝日町の町会議員を80歳過ぎまでやっていた稲村功さんと、職場が近くにあったということもあって近しくなって、いっしょに学習会をやってきました。労働組合のことや、政治の問題とか。
私がまだ20歳前ぐらい、レッド・パージがあった後に、不二越の門前で共産党がビラをまいていた。そこで、野上さんのだんなさんがレッド・パージにあいましたが、共産党というものもなんとなく1つ頭にあった。
それから労働組合は社会党でしたから、社会党というのも頭にありました。
そういう青年部の学習会をやるのに、最初に日本社会党の富山県連というところへ行って、なんか資料くだはれんまいかと言うたけど、なんにもくれんがですよ。そんで、そこにおった2、3人の人たちが、「不二越から来たがけ。あいつはどうしてる、こいつはどうしてる」というようなことで、取り合わなかった。それで、これはどうもならんと思って、そこを辞退して、次に共産党の県委員会へ行きました。その時の県委員会、富山市の丸の内の事務所に行ったんです。通称・丸の内の事務所と言っておりますが、そこへ行って、窓口に顔を出された人は、「なんで、こんなところに来るんだ」と。「こういうところに直接来てはだめながだ」と。第一声の一発、そういうが。
今から思えば、窓口に出られたのは、亡くなられた、県常任委員をやっておられた西野弘さんでした。そして、「こんなふうにこれから来るな。これから言うところに行け」というので紹介されたのが、今の不二越駅の近くに、昔は山室駅というところがありましたが、その山室駅のちょっと行ったところの塚原さんという家でした。
そのお宅を尋ねたところ、女性3人がいっせいに顔を出される。その1人が、ここにおられる野上登美子さんたち3人おられたんです。こっちはこんな状態ですから、圧倒されておりましたら、その場で手続きして、「赤旗」を受け取るポストにしてもらいました。
そのうちに、野上さんから声がかかって、「あんた、だっか知っとるもんおられんけと。おられたら一緒に私と来られんか」言われました。知っとるもんおられんかと言われりゃ、おらんことはないがだけど、こまごまと話できるのは、先ほど言った、朝日町の町会議員やっとられた稲村さん。で、稲村さんに、実は、こうこうこういうわけで、なら、野上さんのところに1回行かんまいかということで、野上さんのところへ行って、学習会を始めました。
最初は「賃労働と資本論」。それから、スターリンの書いた「弁証法的唯物論の学習」。その時に、職場の細かい問題があったもんだから、そういう話をしとった。なら、労働組合の勉強もしられるか、というので、当時の世界労連第3回大会の議案を学習しようというて取り寄せてもらいました。現物はこれです。
この他のこともいろいろやって、だんだん、夏も過ぎて秋になると。さあ、今度は共産党に入られんけという話になりまして、9月20日に、2人一緒に入党しました。「ペンネームつけんなならんまい」と言われて、それならどういう名前にしりゃいいがかと、2人とも、とまどっとったら、野上さんが、「稲村さんは体が大きいから『大田』。それから、渡辺さんは小さいから『小田』。大きい単語と小さい単語」ということで、ペンネームつけてもらった。
私のペンネームちゃ、野上登美子さんがつけたということで、それ以来、私は小田で、稲村さんは大田というペンネームでそれ以後活動するということをやってきたわけです。
(つづく)