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「私と日本共産党」での発言 前県委員長・名誉役員・反保直樹(3)

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 問題はそのあと、なぜ、こんな大坪義一元県議の横暴が続けられたのか、ということが党県常任委員会で幾度となく論議され、県常任委員会の中に大坪氏の自由勝手を許す反民主的な弱さがあったことを深めることになりました。党創立100周年記念講演では、「50年問題の総括」として、「なぜソ連・中国などの干渉によって、党が分裂するという事態に陥ったか。その大きな根の1つに、当時の党内に強くあった反民主的な気風がありました。特に党の中央委員会で、当時の徳田書記長の専決による指導が人事も含めて支配的となり…(中略)…民主的集団的な検討が保証されなかったことが分裂という最悪の事態に陥る根の1つとなりました」と述べ、「個人中心主義のやり方を排して、集団的な指導を重視すること、党内の民主主義的な気風を大切にするとともに、規律を破る分派主義は絶対に許さないこと」と述べています。まさに県党も、こうした弱さが、大坪氏の誤りを増長させ、早くただすことができなかったということを県常任委員会の弱さとして深めました。

 この問題では、100周年講演の中でも、党自身の自己改革ということで、2000年の規約改正で「前衛」「上級・下級」「中央集権制」という言葉を削除し、「『民主』というのは党内民主主義を現し、『集中』というのは統一した党の力を集めることを指す」ことと明確にしています。

 私自身の活動でも「50年問題」の総括は、「大坪問題」を通じて、県常任委員会の集団指導体制を強化することに努力するとともに、県党の中で起こる組織問題の解決にとって本当に重要な教訓だと痛切に深めることが出来ました。私自身が県委員長の時期にも、元議員の地区機関との不団結問題やパワハラ問題などの解決にも迫られました。当時は幹部の一部に、「俺が俺が」という傾向や「50年問題」で深めた反民主的な弱点がありました。そしてそれは、中央委員会や県委員会の方針を正面に掲げて活動することが弱い傾向となって現れるものでした。

 しかし、日本共産党は、間違いを徹底して深めるならば党員として引き続き活動することができるし、反党的な活動や党に重大な悪影響を及ぼすことがない限り、党員としての生活を全うすることができることを深めて対応することができました。(今では、県の役員も支部の役員も党内の任務分担。県委員長も辞めれば支部に所属して活動するのが当たり前に。県委員長や中央委員長が県委員会や幹部会議で選ばれることは、個人中心主義をできるだけ排除する仕組みでもあります。これも他党にはない優れた点だと思います)

 昨年11月8日に逝去された堀口清子さんとの思い出もこの時期にありました。1980年の「社公合意」で「共産党は蚊帳の外」、「民主集中制の1党独裁の党」という全国的な反動攻勢が強まる中で、1983年の参院選に私も立候補しましたが、その直前の4月、富山市では佐藤英逸、森沢恵美子の両氏の離党表明直後の市議選でした。佐藤、森沢の両氏は離党しその後自民党に入りましたが、両市議が南部を地盤にしていたため、“何としても南部から立候補を”という要請を受けて、富山市北部の広田市営住宅から移住したのが堀口清子さんでした。大変勇気ある立候補で、私も選対に入り、南部の党員は苦しいたたかいの中で頑張りましたが落選。4年後には当選し3名の市議団になりました。   
      (つづく)

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