11月23日に行われた「私と日本共産党」。発言を紹介する2人目は、前県委員長で、現在は富山地区・太田支部で活動している反保直樹さんです。
こんにちは、今日はお招きいただいてありがとうございました。
「『私と日本共産党』というテーマで話してほしい」という要請がありました。何をどう話すか迷いましたが、自分の党員としての生活や活動での大きな変化や自分自身の成長があった出来事を、100周年の記念講演で語られた党史を背景に話してみようと思います。
自分の党生活で大きな出来事の第1は、やはり日本共産党への入党と党専従者への決断でした。
私は、1969年、岩手大学の2年生の時に19歳で入党。ですから党歴は53年です。専従者にはその5年後に要請されて決意しました。大学に入った時は、当時の学生紛争と呼ばれる時期で、ちょうど東大闘争の年でした。1年生で学生自治会のクラス執行委員に選ばれ自治会活動に参加。その活動を通じてその年の9月に民青同盟に参加しました。その時の私の決意表明は、「民青の活動もパチンコする行動も自分にとってはあまり意味のない活動で、一緒です。しかし、民青の活動は周りの青年の暮らしを良くするから、そのほうが“まだまし”と思って入ります」。生意気で随分世の中を斜めに見た、ニヒルな青年だったと思います。自治会の活動に参加し、1年後に日本共産党に入党。その5年後、立山アルミで働いて1年半ぐらいの時、要請されて専従者になりました。
この時期は、私の人生も激動で、「見方が変われば人生が変わる。世界の見える景色が変わる」ことを実感した時期です。日本共産党への入党と科学的社会主義の学習が、その後の私の前向きな人生を切り開いた5年間になりました。
党の100周年記念講演に、「70年代の躍進の重要な特徴は、60年代に粘り強く続けられた党建設の飛躍的発展という強固な土台の上に実現し躍進」とあります。当時の党建設について、経験の一端をお話します。
暴力学生との論戦もあり、資本論などマルクスやレーニンなどの古典や文献をたくさん読みました。民青同盟員や党員拡大は日常の課題で、4年で卒業する学生支部は存亡を賭けて取り組みました。特に新入生拡大は学部生の任務で、新入生が入学する前に学部生だけで一般教養支部を結成。新入生歓迎の対策を立て、3年生の後期にその支部に派遣されました。
私は自治会担当でしたので、全学自治会連合の一員として1年生の教養部自治会執行部を担当しました。サークルや寮担当、民青担当などを置き、寝ても覚めても新入生の中で民青同盟や党員を拡大する対策が立てられ、1年間で3桁の民青同盟員の拡大を行いました。
卒業して、立山アルミに勤めましたが、党員も同盟員も1人もいませんでした。呉西地区の直属になり私の任務は、民青班をつくり党員を増やすことでした。寮に入り、卓球サークルに参加し、その中で「学習の友」を使った学習サークルを作りました。専従になるまでの約1年半で、民青班が出来、党員をやっと1名増やしました。当時は、どの党支部も結びつきを広げ、党勢拡大を活動の柱に据えていました。その力が選挙の躍進に結びつき、「70年代遅くない時期に民主連合政府を」を合言葉に1972年の総選挙で564万票、39議席へ躍進し野党第2党になりました。
その点で、私の県委員長時代は、特に党員拡大の位置づけが弱かったと反省しています。6中総決定は、「新しい野党連合政府実現」をめざし、この時代のように歴史的な党建設を呼び掛けています。こうした党建設の活動に微力ながら参加したいと思います。
(つづく)