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「私と日本共産党」での発言 前県委員長・名誉役員・反保直樹(2)

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 私の党生活での大きな出来事であった第2の時期は、1978年の京都府知事選に3カ月間支援に行ったことと、80年から30歳で参院選の候補者になって活動した時期です。党創立100周年講演で志位和夫委員長が、70年代の党躍進に「危機感を募らせた支配勢力は、本格的な反動攻勢の構えを確立」と述べた時期です。(私の専従活動の出発は、農村宣伝組織者、各地に農民組合の青年部をつくることでした。利賀村に県内で初めての女性農業委員の米倉光子さんが誕生した時の活動は今でも忘れられません)。

 私にとっての反動攻勢の経験の最初は、京都府知事選挙の支援に行った時でした。この選挙は、「国際勝共連合」が全国的に姿を現し始めた最初の選挙でもありました。謀略ビラが配られ、激しい反共と反社・共共闘の攻撃に直面し社会党が脱落し蜷川虎三さんの後継者の杉村敏正候補が落選しました。それを契機に翌年には東京や大阪などの革新都府県政が敗北し、富山市でも革新市政が失われました。当時は、「階級闘争の弁証法」ということを良く理解できずに、本当に悔しい思いをしました。(富山では1978年に、勝共連合事務所に抗議に行った4人がでっち上げの告訴をされた事件〈もちろん無罪〉もありました)。

 参院選の候補者に最初になったのは1980年で、全国的には「社・公合意」で「共産党を除く」体制が生まれた年で。県党にとっては「大坪問題」の直後の選挙でした。

 反動攻勢との戦いのエピソードはたくさんありますが、この時期の大きな困難になった県党の「大坪問題」に触れたいと思います。

 この時期は全国的に党の民主集中の組織原則が、民主主義の無い「1党独裁の中央集権制」だという攻撃が加えられた時期でした。大坪義一県議はそうした攻撃にたじろぎ、「日本共産党には党内民主主義はない」と唱える学者と手を結び、その意見を中央に出したことがきっかけでした。その後の話し合いで、大坪議員は、それが自分の自由分散の誤りであったと1980年3月の県党会議で自己批判の発言を行いました。私は、その年に参院選の候補者になり、その後、県常任委員会に加わったので、それまでの状況はわかりませんでしたが、その後の経過はよくわかりました。

 大坪氏と佐藤英逸富山市議の両氏が2か月後の5月に突然離党表明を行いました。私にとっても衝撃的事件でした。3月の自己批判の後も調査が続いており、その中で、「ニューコミュニスト同盟」という分派組織立ち上げを準備していたことが発覚。さらに腐敗事件が分かってきました。関西電力との間で高圧線の線下補償にかかわって、党に隠れて数百万円の政治献金を貰っていたことや、県庁でマスコミ関係者や県幹部などとお金をかけた麻雀に何度も参加していたことなど。当然、党内の調査も行われていました。この調査の途中の5月に、党の「民主集中制は民主主義がない」と言って離党表明の記者会見を行ったものです。当然離党した大坪、佐藤は除名になりました。その後、11月に森沢恵美子富山市議も離党し、県党は全国的な反動攻勢と合わせて困難な時期を迎えました。  (つづく)

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