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「私と日本共産党」での発言 前県委員長・名誉役員・反保直樹(4)

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 第3 の出来事は、1994年、突然の県委員長指名とその後の活動の時期です。

 私の党歴の53年間は、党創立100周年記念講演でも述べられている3回の躍進を経験しましたが、その躍進の後には必ず激しい反動攻勢を迎えた中での活動でした。「オール与党」のなれ合い政治の矛盾から、80年代後半の躍進が生まれました。それに対して90年代前半、「『オール与党体制』に代わる新たな反動戦略」が生まれてきた時期に、私は県委員長になりました。「自民か、非自民か」の選択選挙が大々的に押し出され、ソ連東欧の崩壊、天安門事件も起こり、細川政権も誕生して、苦しい選挙が続きました。しかし、細川政権が自壊する中で日本共産党への注目が広がり、90年代後半の躍進の時代に入りました。96年の総選挙、98年の参院選で躍進し、全国では820万票、15議席を獲得。県党も参院選では過去最高の比例4万9千票余を獲得。選挙区でも5万6千票を超えました。非常にうれしかった選挙戦でした。

 その直後の2000年の総選挙で、また反動攻勢が生まれます。反共作戦の最初は、共産党に焦点をあてた反共謀略作戦。勝共連合が全国的に策動した総選挙の「赤ビラ」です。富山市内では投票日の早朝、地鉄沿線の駅やバス停など様々なところで置きビラなどの大量配布が行われました。「自民か民主かの2大政党政権選択選挙」の押し付けと激しい反共攻撃。2012年の民主党政権崩壊まで苦しい選挙が続きました。激しい反共攻撃は支持者に影響を及ぼすだけでなく、共闘していた野党により大きな影響を与えました。

 日本共産党は冷静な選挙総括を行い、統一戦線を何としても前進させようと全国的に努力しました。富山でも「一点共闘」の取り組みを進めました。農業分野と「平和センター」などとの共同では早い時期からの取り組みがあったのが富山県です。農業自由化、TPP問題が起こり農民連などが活発に活動。農協中央会会長が、私が若い時に農団労の執行委員長をしていた民主的な人で、そういう結びつきもあり、率直に日本共産党主催の農業シンポジウムへの参加を呼び掛けて、実現。また、富山県は社民党の影響力が比較的強く、県連合の社民党支持労組が集まっている「平和センター」の会長が全農林出身のY氏でした。若い時の「労農大学」運動を一緒にやった友人でした。彼は社会党支持でしたが共産党にもシンパシーを感じ、日刊紙を昔から読んでおり、付き合いがありました。2010年ころだと思いますが平和センターに1~2か月に1回程度コーヒーを飲みに行き、政党同士の共闘はまだ難しかったので大衆的な共闘を何とかやろうと意気投合しました。民主団体の努力があって県党は全国の県段階では、1点共闘の歴史の最も早い県の1つです。その後、大衆的な共闘が続けられ、2015年の安保法制反対のたたかいを経験し「市民と野党の共闘」が劇的に実現しました。

 県委員長時代の忘れない出来事に2011年の東日本大震災があります。突然の東北沖地震と津波被害がありました。義理の兄が大槌町に住んでいて海にのまれ行方不明に。岩手県は大学時代の友人も多く、時の岩手県委員長も岩手東部地区委員長も同じ大学出身者でした。何かしなければという強い衝動にかられ、中央委員会と連絡しましたが、直後は混乱し、現地に入れませんでした。そこで、直接、岩手県委員会と連絡を取り、震災ボランティアを派遣することにしましたが、行く道も寸断。それでも4名の先遣隊を送り、1週間後に15人の第1次ボランティアを送り岩手東部地区委員会と連携し、釜石市などの支援に入りました。最も早く現地に共産党組織として支援に入ったのが富山でした。その後全国の党組織が地域を分担して支援に入ることになりました。県党の同志や支持者から緊急の支援金や物資が沢山届き、“困難あるところに日本共産党”の存在感を示したと思います。
      (つづく)

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